カテゴリー「!オピニオン」の98件の記事

2017年6月 3日 (土)

加計学園問題の本質論は、四国に獣医学部を新設することの是非ではないのか

いやもう本当に前川元次官の言うことを信じて大騒ぎしているマスコミや民進党はどうかしていると思う。

規制緩和は、役人の既得権益も脅かされるから官僚が反対するのは当然。それを打破するために官邸や内閣府が省庁に圧力をかけるのも当然。それは「行政を歪める」ことではなく、「行政を正そうとしている」だけで、収賄がない限り、何の問題もない。こういう政府と官僚のせめぎ合いは、時には政府が勝ち、時には官僚が勝つ。今回の戦略特区に関しては官僚が負けて、彼は負け犬の遠吠えをしているだけ

そもそも、この男は禁止されている天下りの斡旋をしてクビになった人物。それでも8000万円も退職金をもらったのに、その腹いせに今になって政府批判をしているだけ。天下り斡旋こそ「行政を歪めた」国民への背信行為であり、それを棚に上げておいて再び表舞台に出てきて堂々と政府批判するのは厚顔無恥と言う他ないし、そんな人物を担ぎ上げる野党やマスコミの倫理観はダブルスタンダードだ。

出会い系バーに通っていたことも、もし反対の立場で政府関係者だったらそれこそ辞任要求だ任命責任だということになるのに、「調査だった」などという子供でも騙せないような嘘には目をつぶる。こんな男が信用に値するというのか

しかし前川のことは本質論ではないからどうでもいい。

加計学園問題で一番大事な「本質論」は、四国に獣医学部を作ることが正しいことかどうかということだ。そのことが政策判断として間違っていて、国民の不利益になるという議論は、野党からもマスコミからも全く聞かれない。実態はむしろ逆で、自治体や現地の畜産農家は獣医師不足を10年以上前から訴えているにも関わらず、「獣医師は足りている」と言ってそれを黙殺してきたのは獣医師会とそれと結託している農水省・文科省だ。

その本質論をそっちのけで、理事長と総理が友達だということだけで陰謀説を展開し、政権批判と政局の道具として利用しようとしているだけ。こんなのは三流の政治、三流のジャーナリズムだ。

獣医学部が全くない地域に学部新設しようとする政府と、52年間も獣医学部の新設を阻止してきた獣医師会&文科省とそれを政局に利用としている民進党で、どちらが国民のことを考えているのか、答えは明白だ。

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2017年5月27日 (土)

森友の次は加計学園、もううんざりだ

森友の次は加計学園か。もううんざりだ。違法性があるなら検察に任せればいい。違法性がないならいくら議論しても水掛論だ。森友問題の時も書いたけれど、国会はワイドショーでなくて「国政」を議論する場だ。マスコミもこの話題を煽るなと言いたい。

一番重要なポイントは、獣医学部が一つもなく、獣医が不足していると言われている四国地方に獣医学部を新設することが国民の利害に反する背信行為かどうかだ。もしそうでないならば、仮に官邸の圧力があったとしても、収賄がない限り何の問題もない。

獣医師会と官僚と族議員によって、現職獣医の既得権益を守るために獣医学部の新設は52年間も阻止されてきた。その規制に風穴を開けるための特区だから、所管省庁や権利団体の抵抗を打破するために官邸や内閣府から少々の圧力はあって当然だろう。

政府はもともと全国レベルで特区申請があれば認める方針だったのに、「獣医師の数は足りている」と主張する獣医師会と農水省・文科省の強い抵抗に合って、「広域的に獣医学部が存在しない地域一カ所に限り新設を認める」というところに落ち着いた。その結果、手を上げた京都産業大学は大阪に獣医学部があるから却下され、下の地図を見てもわかるように獣医学部が一つもない四国の加計学園だけが認可されたのだ。

この結果として新設を認められた加計学園の理事長が総理の友人だから野党は「最初から加計学園ありき」だったのではないかという陰謀説を描こうとしているが、この経緯を見ればむしろ加計学園一校になったのは獣医師会のせいでもある。

もしこの騒動によって加計学園の認可が取り消しになったら、一番喜ぶのは獣医師会であり、父親が獣医師会副会長で弟も獣医師であり、獣医師会から献金をもらっている民進党の玉木議員だろう。彼の方が、はるかに特定団体を利する行為を行っていて、国民の利害に反することをやっているのではないか。

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(「ダイヤモンド・オンラインより)

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2017年4月27日 (木)

「~すぎる」の乱用はやめてほしい

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これは今朝のネット記事から。こういうネット用語を見出しに使うとそれがいつの間にか当たり前な日本語になってしまうのでやめてほしい。

実は、自分も以前は「可愛すぎる」とかを使っていたけれど、あまりにも普通に使われるようになってからは使わないことにした。そもそも「すぎる」とは何かが甚だしく度を越している事で、いい意味には使われないのが普通。

昔もいい意味で「美しすぎる」などと使われることはたまにあった。野口五郎「君が美しすぎて」(1973)、八神純子「思い出は美しすぎて」(1978)など。でも、これらの歌詞の場合は、美しすぎて逆に何らかの哀愁があるから、「すぎる」の意味がある。または、「美しすぎる市議」のように、「〜にしては」という何らかの相対的な比較対象がある場合も。そのような対比がなく、単に最上級を表す意味で「すぎる」を使うのが今のネット用語の特徴だ。

普通の褒め言葉を使えばいいものを、今みたいになんでもかんでもすぐ「可愛すぎる」「美しすぎる」「凄すぎる」「天使すぎる」などと最上級を乱発すると、その強調性や希少性の意味がなくなり、もはや陳腐な表現になっている。最上級はめったに使わないから意味があるのだ。

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2017年3月 9日 (木)

森友問題の過熱報道にうんざり

森友学園は確かに問題だ。次から次へと疑惑が出てくる。よくこんなデタラメがまかり通るなと、騙される行政に対しても腹立たしい。野次馬根性を刺激するスキャンダルねた満載だからマスコミがこぞって扱うのは仕方がないかもしれない。

だけど、これだけは言わなければならない。これは開催すると1日3億円かかる国会で議論すべき内容ではない。国会とは、数千億円・数兆円規模の国策や予算を審議する場だ。違法性があるなら行政と検察で粛々と調査追求すればいいだけのこと。国会はいちいちマスコミで話題になっていることを下請けする機関ではないのに、今やそれに成り下がっている。

国会は裁判所で言えば最高裁にあたる。憲法判断や重大事件しか扱わない。森友問題は、地裁レベルの事件を最高裁で審議しているようなものだ。民間企業だって、取締役会で決裁するのは何億円以上と決まっている。国会で扱う議題と扱わない議題の基準を設けるべきだ。

言いたいことは、日本には今、景気対策、財政再建、消費増税、安全保障、通商政策、社会保障、福島・熊本の復興対策、原発・エネルギー政策、待機児童問題、対米・対中・対韓国・対北朝鮮政策など、数兆円規模で国民の将来に関わる、はるかに重要な問題が山積している。

森友問題にこんなに時間を割くことによって、これらの問題が置き去りにされている。野党よ、それでいいのか。マスコミの洪水のような報道によって、このローカルな一事件が、あたかも国家国民にとっての一大事かのように勘違いされている。これが著しくバランス感覚を欠いていることに誰も気付かないことが嘆かわしい。

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2016年8月11日 (木)

オリンピックにふさわしくない競技

オリンピックにゴルフやテニスはふさわしくないと思う。ゴルファーやテニスプレーヤーにとってオリンピックは目標でもないし最高の名誉でもない。オリンピックで金メダルを取ることよりも、マスターズやウインブルドンで勝った方がよほど嬉しいはずだ。オリンピックは賞金がもらえるわけではないし、彼らの競技人生や選手生命にとってメダルなど取れなくても痛くも痒くもない。つまり「成功の尺度」が違うのだ。

今回のリオ五輪では、デング熱や治安の悪さを理由に出場を辞退するテニスやゴルフの選手が続出したけれど、それを批判するつもりは全くなく、彼らからしたら当然だと思う。大して重要でないオリンピックに出ることで、「本業」のツアーに影響が出たら元も子もないからだ。だけど、そのために世界の頂点のプレーヤーが全員集まるわけではないので、金メダルを取っても素直に世界一とは認めがたい。例えば、ボルトやフェルプスが、「ブラジルには行きたくない」という理由でオリンピックを辞退するといことはありえない。それが「本業」だからだ。

それに対して、陸上や水泳、体操、柔道、レスリングは、ほとんどの場合競技からの直接的な収入がなく、オリンピックと世界選手権以外に大きな活躍の場もない。これらの競技の選手にとって、オリンピックは疑いもなく最高峰の活躍の場であり、世界最高の選手は必ず出場するから真に世界一の戦いになる。オリンピックを目標に4年間努力してきた選手と、年間に何回も大きな大会があり、普段の競技生活の中で何億円も稼ぐ恵まれた環境にいる、オリンピックなどなくてもいい賞金プロとは同列に見ることはできない。

ゴルフとテニス以外にも野球、バスケットボール、サッカーなど、プロリーグ(とくに男子)があまりにもメジャーなスポーツも、オリンピックにふさわしくないと思う。サッカーの頂点はワールドカップでありオリンピックではない。似て非なる大会を二つもやる必要はないだろう。プロ野球選手も最優先なのはそれぞれの国のリーグ優勝であり、「本業」に影響のない範囲でしかオリンピックには出場しない。WBCですらMLBのスター選手は敬遠するようになっている状況で、オリンピックで野球をやる意味がどこにあるのか。我々がオリンピックで見たいのは、オリンピックを目標に4年間努力してきた世界最高の選手たちが、真の世界一を競う姿だ。

オリンピックの競技数が肥大化すると、そのための会場を整備する費用も肥大化する。それは開催国の国民の税金によって賄われるということも、4年後のオリンピックの開催国である我々は認識する必要がある。

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2016年6月25日 (土)

護憲派の皆さん、こんな憲法改正でも反対ですか?

憲法論争になると、「平和憲法は素晴らしいからとにかく変える必要がない」という思考停止した護憲派と、アメリカに言いなりの軍事強化をしたいタカ派に二分されている。自分は、憲法のあいまいさと拡大解釈を防ぐために、憲法は改正すべきだと思っている。ただし、集団的自衛権を含め、現在の安倍自民党が考えているものとは違う。

まともに憲法9条を読んだら、

「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」

と明記されているのだから、自衛隊自体が違憲で、日本は本来、非武装でなければならない。だから、厳格に憲法を守って立憲主義を追求するのであれば、自衛隊は解体しなければならない。昔は大真面目にそう主張する人も多かったけれど、最近では共産党でもあからさまに自衛隊の存在は否定しなくなった。

では現在どういうロジックで自衛隊が正当化されているのかと言うと、野党やマスコミを含めて、「憲法は、自衛権までは否定していない(肯定もしていないけれど)*。自衛のための必要最小限度の武力保持は、9条の例外として許容される」という詭弁とこじつけを信じることにして黙認しているというのが実態だ。

つまり、「今さら自衛隊を解体することは現実的ではないから、いいことにしようよ」と現状に合わせて「都合のいいように憲法を解釈」しているのだ。自衛隊を容認している時点で、すでに立憲主義は破綻しているのだ。このように現状に合わせて都合のいい解釈をしたり、例外を許容したりするゆるさこそが、今の憲法の危うさなのだ。その最もいい例が、護憲派はもちろん改憲派までも「戦争法案」として大反対している、通称安保法案だ。

自衛隊の個別的自衛権を認めていること自体が憲法の拡大解釈なのだけど、「集団的自衛権はいくらなんでも拡大解釈が過ぎる」と自民党が選んだ憲法学者でさえも全員が違憲だと主張したにも関わらず、 安全保障関連法は通ってしまった。

つまり、「どっちにも解釈できるよね。だから国会で多数決で決めちゃえばいいよね。俺たち過半数持ってるし。」ということで決まってしまった。このように、憲法を改正してきちんと「自衛権」の中に含まれることと含まれないことを定義しない限り、今回の安全保障関連法のように、法案レベルで何でもできてしまうのだ。

護憲派の皆さん、こんな憲法改正でも反対ですか?

・自衛(自国の領土・領海・領空の防衛)のために陸海空軍の戦力を持つことを認める
・徴兵制は認めない
・核兵器および自国領界を超えて他国を攻撃するミサイル等の戦略兵器の保有は認めない
・武力行使を目的としない平和的活動以外に、国外に派兵することは認めない(ただし自衛のための武器を所持することは認める)

「憲法が改正されたら徴兵制が復活して戦争国家になる」などと言っている人がいるが、ナンセンスだ。むしろ、憲法を改正しないでこのままの拡大解釈容認体制を放置した方がその可能性は高いと言えるだろう。徴兵制や核保有などを認めないと明記した憲法に改正すれば、その恐れは完全になくなる。「改正する」「改正しない」の単純な二元論ではなくて、どのような憲法にすべきかを、国民一人一人が真剣に考える手間を惜しんではならない。

*憲法には「自衛権」を認めた記載はないが、13条、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の中で自衛権は正当化できるという解釈が一般的。しかしこれはなんとか自衛隊が合憲だという根拠を見つけ出すためのこじつけの憲法解釈である。

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2016年6月18日 (土)

「愛国心」を悪い言葉として扱うのはもうやめにしないか

「国旗」「国歌」「愛国心」というようなものが、戦後70年たっても、いまだに軍国主義と結び付けられるために、これらを素直に認めることができない国であることを、自分は悲しいことだと思う。

自分は小学生の時にアメリカに移住してびっくりしたのが、毎朝授業が始まる前に、全生徒が起立して、各教室に必ず置いてある大きな国旗に向かって胸に手を当てて、Pledge of Allegianceという、国家への忠誠の誓いを唱えるのだ:

”I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.”

「私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います」

法律的には強制ではないし、批判が全くないわけではないらしい。しかし、ほとんどの場合、どんな人種でも、政治的・宗教的信念を持っている人でも、すべての人が何の疑問もなくこれを唱えるのだ。学校だけでなく議会や多くの公的会議の場でも同様。でも教室に国旗を掲げることすらままならない日本で、こんなことをやろうとしたら日教組を始めマスコミは大反対するだろう。

「国への忠誠」とか「愛国心」とかは、「その時の政権への忠誠や支持」ではなくて、「国の根源にある理念や理想への忠誠」と、「国土と国民と文化への愛」のはずだ。しかし、「今の日本は愛せない」などと言ってその時の国の状態との区別がつかない人や、意図的にその時の政権や政策の支持と混同させて「愛国心」とはあたかも悪い言葉であるように仕向けようという誤った風潮を感じる。

ほとんどの国では、左翼だろうが右翼だろうが誰もが国旗掲揚するし国家斉唱をする。君が代の歌詞が天皇崇拝だとか、そういう問題じゃないだろうと思う。日本という「国を愛する」という心が根底になければ、右だろうが左だろうがどんな理屈や政策を訴えても価値はない。「愛国心」があたかも悪い言葉のように扱われる国に、明るい未来はない。

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2016年6月16日 (木)

なぜ街頭インタビューはバカばかり映るのか

いつも思うのだけれど、街頭インタビューで使われる映像って、あえてバカなのを選んでいるのだろうか。それとも日本国民はみんなあんなにバカばかりなのか。

今朝のニュースで、次期知事候補として名前が挙がっている人の写真を見せて意見を聞いている場面があったけれど、名前も知らない候補者を指して、「あたし、この人がいい!○○なイメージ!」と若い女性が無邪気な笑顔で言っていた。

自分の頭で何も考えてなくて、テレビが描くイメージを鵜呑みにしてる人ばかり。何故そう思うかという理性的な根拠がなくて、情緒的な印象や好き嫌いだけ。「いいこと言うね」「ちゃんと考えてるね」と思うようなことはめったにいない。

アメリカのニュース番組を見ていると、いかにも最低賃金の労働者や、チャラい格好をした若者でも、「我こう思う、何故ならば」と根拠をもって実にしっかりとした意見を短い時間の中で語っているのに感心する。アメリカのテレビ局は、むしろそういう人を選んで放送しているかもしれないけれど、日本のテレビ局は、自分たちが描いたイメージを裏付ける発言をする人だけを選んで放送しているように思う。悪く言えば編集権を利用した世論操作だ。

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2016年6月14日 (火)

報道のエンタテインメント化が止まらない

最近のトップニュース:
ベッキー→清原→少年置き去り→舛添→海老蔵/麻央→ベッキー→舛添劇場

最近の民放テレビ局のニュースや情報番組を見てると本当に頭が腐りそうになる。

景気対策、財政再建、原発、憲法、TPP、社会保障、安全保障、災害対策など、国民が知り、考え、判断しなくてはならない重要な問題はいくらでもあるのに、扱うのは「他人の不幸は蜜の味」というスキャンダルとゴシップばかり。だから司会者もコメンテーターもお笑い芸人や何の専門知識もないタレントでも務まるし、女子「アナ」はもはやアイドルだ。こういう報道のエンタテインメント化によって、国民は表面的な事象を感情論だけで判断するようになり、理性的な思考能力を失っていく。

本来であれば、マスコミは重要で難しい問題を国民にわかりやすく伝えるべきなのに、一過性の事件ばかりをこれでもかと扱うので、本当に重要な問題は置き去りにされて、国民の無知と思考能力の低下は進むばかり。そして信用のおけるメディアがきちんと報道しないから、個人ブログやツイッターや素性のわからない海外の情報源がまことしやかに拡散されて、ますます何が本当なのかわからない世の中になってきている。

だから民衆は、知らないから、難しいから、自分で調べたり考えるのが面倒くさいから、感情や印象で判断するようになる。かくして選挙で当選するのは政治を行うための知識や経験や能力や人格とは何も関係ない、知名度が高いタレントか容姿の優れた候補者ばかり。それでも投票に行く人はまだいいけれど、その判断すら放棄する人が半分くらいいる。そして誰もが政治に不満を持っている。もはやこれは民主主義が破綻していると言ってもいいのではないだろうか。

このような危機感と見識を持ったジャーナリストは日本にも沢山いると信じたい。そのような人たちが結集して、質の高いジャーナリズムを追及する新しいメディアを造ることを切望する。

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2016年6月 7日 (火)

舛添問題に思う

舛添都知事の問題に関して、舛添氏を弁護する意図ではなく、マスコミからは語られない視点で書いてみようと思う。

今回の弁護士の見解では、「不適切な点はいくつかあるが、違法性はない」ということ。その法律的見解が正しいという前提で話しをすると、これだけのことをやっても違法性がないということが最大の問題だと思う。つまり、舛添氏の感覚が国民とズレているというよりは、法律が国民の感覚とズレているのだ。

政治資金規正法は、主として資金の入りの方を規制していて、支出に関してはザル法なのだ。例えば国会議員に毎月100万円支給される「文書通信交通滞在費」には領収書も報告義務もないし、政党助成金を受けている政党から議員個人に支給された寄付金にも報告義務はない。どれも元は我々の税金にも関わらず、それで高級車を買おうが豪遊しようが「合法」なのだ。

知事の資質が疑問視されているけれど、そもそも正直に回転ずしに行ったとか絵画やクレヨンしんちゃんを買ったとまで申告していたからこそ今回の問題は発覚したわけで、むしろ馬鹿正直と言えるのではないか。それが違法だという意識があったら隠していただろう。

これ以上舛添氏を責め立てても、何も生まれないし政治と金の問題はなくならない。これに近いことをやっている政治家はいくらでもいるはずだ。彼らはむしろ、違法性がないことがはっきりしてほっとしているのではないだろうか。追及すべきなのは舛添氏というよりは法律だ。

もう一つマスコミが語らないこと。舛添氏が辞任すべきだという政治家やメディアも多いが、都知事選挙を行うといくらお金がかかるか知った上で言っているのか。50億円だ。舛添氏が無駄遣いしたとされている税金とは桁違いの金額だ。新しい知事以外、何も生まない、全く非生産的な費用だ。ましてや、もし舛添氏が再当選でもしようものなら、50億円をドブに捨てたことになる。

それだけお金をかけて新しい知事を選んだとして、その人が舛添氏より有能で聖人である保証はどこにもない。そもそも日本で政治家になろうなどと思う人が聖人であるはずがなかろう。

仮に最初はそうであっても、権力を握り、いかに政治資金規正法がザル法であるかを知ってしまったら、やはり堕落してしまうというのが実態だ。あの杉村太蔵が初当選した時に、こんなに美味しい仕事はないとかBMWを買っちゃおうかと言って大ひんしゅくを買ったが、あれが普通の人が政治家になった時の正直な感想なのだ。

だから話しは元に戻って、問題にすべきなのは政治資金規正法なのだ。政治資金が本当に国民のための政治活動に使われているという証明を、一般の事業主が税申告の際に必要とされると同じレベルの支出の報告と領収書の提示を要求し、さらには収支報告書には公認会計士または税理士の監査を義務付けるだけでも、この種の問題はなくせるはずだ。

政治と金を問題をなくしたいのならば、マスコミは個別の不祥事が起きるたびに芸能スキャンダルのように扱うのではなく、もっと法制度の改革を声高に叫ぶべきだと思う。

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