« 2018年6月 | トップページ | 2018年8月 »

2018年7月の3件の記事

2018年7月21日 (土)

野党がまともにならなければ日本の政治は良くならない

不毛な国会の会期が終わった。
日本の政治を見ていると絶望感しか感じない。

与党も決して褒められたものではないけれど、一番悪いのは野党だと思っている。国政や法案の審議ではなく、不祥事の追及ばかりに国会審議の時間を費やした挙句、法案には審議拒否・審議妨害をし、「十分な議論がなされていない」「強行採決」だと負け犬の遠吠えをする。まるで駄々っ子だ。審議が十分になされていないとしたらそれはお前たちの責任だ

そして挙句の果てには通るはずのない内閣不信任案を提出してさらに時間と税金の無駄遣いをする。そんな悪あがきのアピールを、国民が評価すると思っているとしたら枝野も玉木も頭が悪すぎる。もう国民はこういう茶番と泥仕合に辟易としているのがわからないのか。

民主主義の原則は多数決なのに、自分たちが国民の支持を得られない不甲斐なさを棚に上げて「数の暴力」と言う。「安倍政権を倒す」ことだけを目標にしている野党は、倒した先にどういう未来を描いているのか、全く見えないから支持されないのだ。野党は所詮「解体屋」であって、解体屋に建築は任せられない。

野党は与党の出す法案に対してことごとくダメだダメだと言う。働き方改革は過労死が激増する、カシノ法案はギャンブル依存症が増えると言うけれど、それは反対するために決めつけた結論であって、「なるほどな」と思える論理的な根拠も裏付けもないし、ましてや代案など聞いたこともない。野党の方が与党よりも頭が良くて誠実だという説得力がまるでないから、国民は与党と野党のどっちを信じるかと言われたら与党を信じるしかないのだ

もし、どこかの野党が、「我が党は国会で一切不祥事の追及はしません。国政の提案と議論しかません。」と宣言する政党がいたら、自分は支持するし、あっという間に野党第一党になれるだろう。

国会がその本来の目的である、「国政」を建設的に議論する場になるためには、野党が、国民が「なるほど、ごもっとも」と納得するような、与党がぐうの音も出ないような政策の提案や議論をするしかない。そうならない限り、野党の票が増えることはない。今のような「批判はすれど提案はしない」というような野党に、誰も政権を預けようとは思わない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年7月16日 (月)

「体育館が避難所」という劣悪な環境を当たり前にしないこと

地震、台風、水害。日本は正に自然災害大国なのに、避難所とは名ばかりの体育館にすし詰めになった光景を見ることが当たり前になってしてしまった。日本の避難所は、ソマリアの難民キャンプより劣悪だと言う。災害の避難所には国際的な「スフィア基準」というものがあって、これはスペースはプライバシーを確保し、一人あたり最低3.5平方メートル、トイレは20人に1つは確保し、その男女比率は1:3とするとういうことなどを定めている。

今回の水害でこれだけ犠牲者が出たのも、避難指示が出ているのにも関わらず避難せずに自宅にとどまった人が多かったからで、それはきちんとした避難所がないということも原因だと思う。こんな体育館みたいな劣悪な環境にすし詰めになるくらいだったら自宅にいたい、という気持ちはわかる。

こういう大規模災害が起こったら、国民宿舎、国民休暇村、共済組合の宿、公務員の保養所などの公営の宿泊施設は客を追い出してでも片っ端から開放すべきだ。空いている公務員宿舎も利用すべきだ。それでも足りなければ、同じ体育館でももっとプライベートスペースが確保できるテントを置き、移動入浴車やトイレも増やす。

公平性やコストや主管団体が異なるなど「できない理由」がたくさんあるのはわかる。だけど、「できない理由」は「できる理由」の裏返しだ。物理的に不可能ではない限り、それを覆せばできるということだからだ。今できないのは、ルールとシステムがないからだ。問題は、それを作ろうという意志があるかどうかだ。それこそが、政治の役割だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年7月 6日 (金)

死刑制度の是非に思う

麻原彰晃ら7人の死刑が執行された。

自分は死刑制度に賛成だ。

まず、法律解釈的には、死刑は更生の可能性がない複数殺人犯の再犯防止と、同様の犯罪の抑止・予防のために行われるとされていて、法律的には「応報(復讐)」ではないという前提で「合憲」とされている。しかしそれでは刑期短縮のない「絶対的終身刑」でいいのではないかということになるけれど、日本にはそれがない。「無期懲役」は模範囚であれば平均30年で仮釈放になるから「終身刑」ではない。

死刑反対者は、死刑には冤罪の可能性があるから反対だと言う。確かに、DNA検査がなく、警察の強引な自白強要や証拠の捏造が横行していた時代には冤罪はあった。しかしそれはこれから死刑をなくすという理由にはならない。冤罪は、死刑犯に限らずあらゆる犯罪において、取調べの録画や技術などで防ぐことは進めなければならない。

それよりも、外国を含めて死刑制度反対論者は、死刑は「非人道的」で、復讐の要素があるから野蛮だという。そうだろうか。そもそも「罰を与える」という行為自体が、社会として仕返しをするということではないのか。実際問題として、死刑という量刑を裁判官や裁判員が判断する際には、被害者にどれだけ苦痛を与えたとか、遺族をどれだけ苦しめたかとか犯人の死刑を望んでいるかという感情が考慮される。つまりこれは、「被害者と遺族のあだ討ちを国家が代行する」という側面もあるということに他ならない。

復讐とはある意味最も人間的な感情だ。愛する者を殺された人にとって、「復讐心は非人道的で間違っている」などと言う綺麗事は、当事者じゃないから言えることだ。犯人がのうのうと国民の税金で養われて生きているという事実が、被害者家族を一生苦しめ、精神と人生を狂わせる。それこそが守るべき「人権」ではないのか。

つまり、死刑が是か非かという議論は、突き詰めると国家による応報は是か非かという議論になると思う。そして、国民の8割が死刑制度の存続に賛成しているのは、それを「是」としているからだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年6月 | トップページ | 2018年8月 »